【内面の投影】現実を変えようとしても無駄です。だけど叶うからややこしい

1.「既にある」の前段階にある気付き


叶っている叶っていない。愛されている愛されていない。幸せ不幸せ。
それらはどのように決まっているのでしょうか。

それらの判断は誰によってなされているのでしょう。
まず、あなたの中で判断の基準になりそうなものとの比較があります。

それは、世間一般的な幸せの基準に自分が合致しているかだったり、身近な他人と比べて自分はどれくらい幸せかというのが基準だったりします。

その基準と照らし合わせて、自分はどの位置にいるかを判断するわけですが、結局のところ最終判断は自分がどう認識するかだけにかかっています。

あなたの幸せは誰も判断してくれません。幸せに確固とした基準など存在しないからです。
あなたは自分が幸せかどうかを自分で判断するしかないし、逆に言えばあなたの判断だけが唯一の基準です。

願望が叶った叶っていないの判断はあなたによって下されます。乱暴な言い方をすれば、あなたが叶ったと思えば叶っているし、叶っていないと思えば叶っていません。

このような表現から連想するのは、「叶ったと思い込んで精神的に満足すれば、たとえ現実にならなくても気にならないと言いたいのか」ではないでしょうか。

もしそうだとしたら、願望実現などという期待を持たせるような表現はしません。
僕なら「気分よく生きる方法」だとか「幸せ気分になる方法」と表現するでしょう。

願望実現は願望実現です。精神的に満足して終わりではなく、それを現実世界で体験するから願望実現なんです。
現象化や現実として体験することに拘っている方にお伝えしたいのは、現象化は確実にあるということです。
願望は叶うし叶っています。体験できますし体験してください。

「既にある」
この表現に惑わされている方は多いのではないでしょうか。願望は既に叶っていて、あとは体験するのみ。ならば既にあるを実感してチャッチャと実現してしまおう。
もちろん、それがすんなり腑に落ちたならばそうするに越したことはありません。

達人と呼ばれている方たちが語っていること、語っていったことはネット上に多数残されています。
それらを注意深く見てみると「既にある」を認識する前には、ほぼ全てと言っていい確率で同じ気付きを得ていることがわかります。

「現実は自分が創っている」

例えば、セドナメソッドの創始者レスター・レヴェンソン氏は、セドナメソッドが確立されていく過程で「ある出来事の前には、前もって一つの考え(思考)がある」ことに気付きます。

ザ・チケットの著者である108氏は、偶然発見した「今今メソッド」によって「今ここでは何も起こっていない」ことに気付きます。
本当は何も起こっていないにも関わらず、何かが起こっていたことに気付いたということです。

今までの現実を創っていたのが自分ならば、今の現実を創っているのも自分だし、これからの現実を創っていくのも自分です。

「現実は自分が創っている」に気付くと「既にある」が体感として理解できます。なぜなら、現実は自分が創っているからです。
残念ながら僕のボキャブラリーでは、これ以上シンプルに説明することはできません。

2.認識変更の経過1


僕の記事の中で恋愛専門の記事は多くありませんが、恋愛系記事の副題に【復縁】をつける傾向にあったり、恋愛とは関係のない記事の中で例え話として「意中の方がいるとして…」と例に出したりすることが多いのは、僕自身が復縁を実現させているからです。

そして、このときの気付きが自分にとっては大きな転換点となりました。
そのとき、認識が変化していった経過を書き記してみます。

既に願望実現の世界を知っていた僕は、なぜ自分の復縁が成就したのかをどうしても知りたくなりました。
願ってはいたけれど、既に叶っているという確信がないまま叶ったからです。

彼女との間で起こったことをいくつかのセクションに分けて、その当時の自分がどのような思考でいたかを思い出しました。
彼女と出会ったとき。彼女に惹かれていったとき。好きになっていたとき。交際が始まったとき。交際しているとき。感謝を忘れ始めたとき。交際が終わったとき。忘れられず想い続けていたとき。彼女からアプローチがあったとき。元の恋人同士に戻ったとき。
その他にも様々なシーンがありました。

僕と彼女は別れてからも年に3~4回は共通の知り合いと共に顔を合わせる機会がありました。
同席しているのに話もしないし目も合わさない。そんなときもありましたし、気を遣って敬語で話し掛けたり話し掛けられたり、社交辞令的に接していることもありました。

様々なシーンを思い浮かべて、そのときの心情を思い出していくと、明らかに自分の彼女に対する見方が現実に反映されていることに気付いたんです。
これは、どう考えても否定できないほど明確な事実でした。

「前回は素っ気なかったから今回もそうだろう」と思っていれば彼女はその通りの態度を取りました。
「前回はちょっとマシだったから今回も大丈夫かな」と思っていれば、やはり彼女はその通りの態度を取りました。

彼女のことを好きでいることから逃れられないのなら、付き合えようが付き合えなかろうが愛そう。愛すことにデメリットはないはずだ。

そうして彼女を愛しているとき彼女は近付き、やっぱり無理かと彼女の素っ気ない態度を非難するような思考をしているとき、彼女は遠ざかりました。
心理的にではなく物理的にです。

その現象は彼女を含めた仲間たちとの食事会のような場面で顕著に現れました。
彼女を愛していないときは、彼女は必ずと言っていいほど対角線や、端と端といった離れた場所を選んで座っていました。
彼女を愛しているときは、隣や向かいを選んで親しげに話しかけてきました。

昔から云われている「人は鏡」という表現を聞いたことがあるでしょう。自分の心的態度が相手からの心的態度となって返ってくる。

彼女との関係のどの場面を切り取っても、自分の愛情の度合いによって現実も変化しているのは明確でした。

3.認識変更の経過2


復縁してから何日も同じことを考えていましたが、答えはなかなか見付からずにいました。

「なぜ彼女は変わったんだろう?」
ここを出発点にして、いくつもの仮説が立てられました。

「彼女を愛したから、彼女から愛が返ってきた」
「愛が彼女を変えた」
「相手を愛すと物理的な変化を生じさせる」

それらの仮説は検証しようとする度に消えていきます。いくら考えても検証不能に陥ってしまって満足する答えが得られないんです。

「なぜ彼女は変わったんだろう?」
何日か経過したある日、仮説の出発点自体が間違っているのかもしれないという新しい仮説が立ち上がりました。

「そもそも彼女は変わってなんかいないのでは?」

交際が終わった後のよそよそしい態度とはまるで別人の彼女が現実にいます。離れていたときの彼女とは違って、今の彼女の態度や言動からは愛情を感じます。

彼女は変わっていないという仮説は、すぐには受け入れられないトンデモ理論のように感じましたが、とにかくその線から思考を進めていくことにしました。

「彼女は変わってなんかいないし、そもそも変えられない。もしそうだとすれば変わったのはなんだろう?」

答えは一つしかありません。
その時々によって変わっていたのは唯一「自分」だけです。

けれどもこれは、これまでに何度も検証してきた仮説と同じように思われました。
「自分の内側が変わったから彼女が変わった」

けれど、実は彼女は変わっていないし変えられない。変えられるもの、変わるものは自分の内側しかない。彼女は変わったのではなく、変わったように見えているだけなんだろうか。

ここでふと気付いたことがありました。
それまでの仮説は全て、自分(内側)と彼女(外側)の関係で考えていたことにです。

外側、つまり自分から見た現実というものは変えることができない。変えられないものを変えようとしていた。変えることが出来るのは自分の内側だけ。

この仮説は一見すると絶望してしまうようなものでした。自分の外側にあるものを変えられないとすれば、現実を変えることは不可能になってしまうからです。
これは、現実というものへの見方を変えて精神的に満足しなさい。精神的に満足したら、現実がどうあろうと我慢しなさい。そう言っているようにも聞こえました。

一方で、この仮説が正しい答えを知っているようにも感じていました。なぜなら「内面の投影」だとか「現実は幻想」という表現が、この仮説に沿えば説明できるように感じたからです。

そして、願望を捨てなさいとか諦めなさいと言われるのも、この仮説に沿えば納得がいくように思えました。
「願望とは外の状況を変えようとすること。けれど外の状況は変えられない。だから外の状況を変えようとするのは諦めなさい」

彼女という自分の外側にあるものは変わっていないし、変えることは原理的にできない。けれども目の前にいる彼女は明らかに以前の彼女とは違う。

内側が変わると外側も変わる。外側は変えられないはずなのに変わるのはなぜか。
自分にとって満足できる答えは一つしかありませんでした。

「そもそも彼女は外側ではない」ということです。

4.認識変更の経過3


自分と彼女、言い換えれば内側と外側という認識がそもそもの誤りで、どちらも内側なのではないか。そうであれば、自分の内面の変化と彼女の変化がリンクすることも納得できるように思いました。
そして、一つの答えが導き出されました。

「外側(現実)などというものは最初から存在していない。存在していないものを変えることなどできるはずがない。存在しているのは自分の内面だけ」

達人たちが語っていた「現実は内面の投影」という言葉が力を持ち始めました。
どちらも内側である。外側という概念は存在しない。
そして、外側という概念が存在しないのであれば、それと対義関係となる内側という概念も存在しない。
そこに区切りはなく、自分が内側と外側を分けていた。区切りがないということは全てが一体であるということ。

「内面の投影」「現実は幻想」「分離と一体」「自分=世界」「現実は自作自演」
曖昧な表現にしか見えなかった概念が、急に輪郭を持ったものになり、願望実現でよく用いられる「スクリーンと映写機」の例えも腑に落ちました。
自分が今まで外側と見なしていたもの。具体的には自分以外の全てもの。そしてそれらが織りなす現実というもの。それらはスクリーン上に映し出された内面の映像だった。

外側というものは存在せず、本来そこにあるのはただ真っ白なスクリーンだけ。
108氏が語った「今ここでは何も起きていない」はこのことではないかと。

「現実とはなんだろう?自分の見ているこの景色は本当はなんだろう?これが自分の内面なのだとしたら現実とはどこにあるんだろうか?」

現実を見ているのは自分だけど、その現実は自分の内面。
「自分が二人いるようなこの状態を説明できる概念はあるだろうか?」
ふいに顕在意識(エゴ)と潜在意識という言葉が浮かびました。

「もしかすると現実とは潜在意識のことじゃないのか?」

見たこともなく感じたこともない潜在意識という正体不明の概念。
目の前に広がっている現実が内面の投影なら、この現実が自分の潜在意識そのものなのではないかと。
そうだとすれば、人間は自分の潜在意識を顕在意識を使って眺めているだけなのではないかと。そして、この考え方が「現実は内面の投影」や「現実は自作自演」という概念を完璧に説明できることにも気付きました。

どこを探しても潜在意識が見つからないのは、ずっと目の前で展開していることに気付かなかっただけ。
「自分探しの旅」なんかしたって見つかるはずもない。どこの国へ行って何を見ようとも「この映像が潜在意識そのものだ」と気付かない限り、死ぬまで探し続けることになります。

潜在意識だの、別の領域だの、宇宙だの、神秘的に仰々しく呼んでいるけれど何のことはない。
生まれてからずっと目の前で展開していて、それを見続けていたんじゃないか。

自分の潜在意識に対して顕在意識が「あれが足りない。ここが嫌だ。もっとこうしたい」と難癖をつけていたり、場合によっては絶望感すら感じていたことに気付いたときには、思わず苦笑いしてしまいました。
そして、今まで必死に現実と闘い続けてきた自分を労ってあげたくなりました。
「お疲れ様」と。

潜在意識という言葉には得体のしれない魅力があります。
恐らく多くの方が、願望を持つ→潜在意識に伝わる→時間経過→実現。
願望実現をこのようなイメージで捉えているのではないでしょうか。

僕の記事の中にも、そのようなニュアンスで書かれているものもありますし、達人と呼ばれる方たちの言葉、あるいは俗に引き寄せ本と呼ばれる書籍の中にもそのような表現が散見されます。

それが間違っているとは言いません。絶対的な正解はありませんから。
けれど、僕の感覚からするとそんなにややこしく考えなくても良いです。

僕なりに表現すれば、全てが自分そのものであり全てが思いのままです。

自分の世界に不満があるなら自分に不満があるということです。
自分の世界に愛が感じられないのは、自分を愛していないからです。
自分=世界ですから、自愛が願望実現の最短距離と思っています。

今回の記事で紹介した僕の認識変更の経過が万人に通じるとは思っていません。人それぞれ腑に落ちるポイントが違いますし、繰り返しになりますが絶対的な正解はありません。
僕の認識は僕にとっては正解ですが、他の方にとっても正解であるとは限りません。
僕の記事を鵜呑みにするのではなく、みなさんなりの解釈で読んでいただければと思います。

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直島 章真(Naoshima Shoma)

不思議で素敵な思考の世界に皆さんをご案内します。 引き寄せで悩んでいる人、心が疲れてしまった人、ちょっと元気をなくした人に響く言葉がきっとあるはず。そう信じて言葉を紡いでいます。