相手から発せられる言動や行動の「刺激」、それを受けてあなたが返す「反応」。
あなたが返した反応が、今度は相手への刺激となり、相手は再びその反応を返してくる。
人間関係は、その繰り返しで育まれていくものです。

人から冷たくされれば、誰だって寂しい気持ちになるでしょう。
人から無視されれば、誰だって悲しい気持ちになるでしょう。
人前で失敗すれば、恥ずかしいと感じてしまうこともあるでしょう。

けれど、「冷たくされる=寂しい」、「無視される=悲しい」、「失敗=恥ずかしい」の間にある「=」は自分の反応次第で「≠」にすることができます。

人はそれまでの経験から、受ける刺激に対する反応の間には選択の自由があることを意識していません。
無意識のうちに今まで通りの「いつもの反応」や「当然の反応」をしまうのです。

けれど、人には刺激と反応の間に選択の自由が与えられています。
寂しい、悲しい、恥ずかしいは全て自分で選んだ反応です。
極端な話、全て「別に気にしてませんけど?」と反応することも選べるのです。

選択の自由は感情だけでなく、行動にも与えられています。
普段の朝の風景を想像してみてください。
あなたは目を覚まし、ベッドから起き上がって身支度をし、会社なり学校なりに向かいます。

それが当たり前と思っていますが、実はここに選択の自由は潜んでいます。
あなたには、ベッドから起き上がらずに二度寝するという選択肢もあります。
身支度は済ませたけれど、気分が乗らないから会社や学校は休むという選択肢もあります。

必ずしも「○○しなければならない」と自動的に決まっているのではありません。
あくまでも「自分で○○することを選んでいる」のです。
普段はそれ以外の選択肢がないように感じているか、無意識に選択しているというだけのことです。

あなたには自由に選択する権利が与えられていますが、それと引き換えに「その選択の結果は自分が引き受けなければならない」という責任が発生します。

例えば人からの売り言葉に、あなたが買い言葉を返したとしましょう。
ケンカを売られたという「刺激」に対して、ケンカを買うという「反応」を返せば、当然ケンカが始まるという結果が起こります。

重要なのは「ケンカを売られた」ということと「ケンカを買う」ということをイコールで結ぶかどうかは、あなた次第だということです。
そして、ケンカを買うという反応を返した結果として、本当にケンカに発展したのなら、その結果はあなたの選択が招いたことであり、あなたはその責任を負わなければなりません。

最初にケンカを吹っ掛けてきた相手が悪いのではありません。
ケンカ両成敗という言葉があるように、このケースではどちらかが悪いのではなく、どちらも悪いのです。
あなたには、まず冷静に相手の話を聞くという選択肢もあったのですから。

朝の風景に話を戻しましょう。
あなたにはベッドから起きないという選択肢もありますし、会社や学校に行かないという選択肢もあります。
しかし、それによって起こる結果は自分が引き受けなければなりません。
会社や学校に行かなかった結果、最終的に困るのはあなたです。
その責任は誰も引き受けてはくれません。

けれど、更にもう一段掘り下げて考えてみると、本当に困るかどうかはあなたが決めることです。
あなたが「別に困りはしないし、責任は取れる」と思うなら、それを貫いていいのです。
そこにもまた、選択の自由が与えられているのですから。

ケンカになりそうなとき、冷たくされたとき、相手の言動に腹を立てたとき。
どう反応するかは自分で自由に選べますが、あなたが返した反応に対して相手がどういう刺激を与えてくるかは、あなたには選べません。

どんな反応が返ってこようとも、全てはあなたの選択が招いた結果と受け止めるしかないのです。
それが、自由と引き換えにあなたが負う責任です。

なるべく良い刺激となって返ってくるように、冷静に反応しなければなりません。
「自由」というと、何もかも好きなようにできるというイメージがありますが、本当の自由には責任が伴うものです。

【選択の自由は常に与えられている】

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